5月31日(日)主日家庭礼拝の手引き・ペンテコステ

説教 「聖霊の教会」 

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 ペンテコステの日を迎えました。新型コロナウィルス感染の危険を避けて、会堂でではなく各自宅での家庭礼拝に切り替えましたのが4月12日イースターの日でありました。それから数えて7週目の主日(日曜日)がペンテコステ、今日の礼拝です。この間、7日×7週で49日間。イースターの日を含めると50日になります。「50番目の日」というのが「ペンテコステ」のもとの意味です。新共同訳が「五旬祭*」と訳しているように、旧約聖書の世界ではユダヤ人たちにとって大切な祝祭日の一つです。
この50日間の最初の日と最後の日に、キリスト・イエス様を信じる人々に驚くべきことが起きた、それが今日お読みいただいた2カ所の聖書個所です。順番に読んで参りましょう。


*新改訳は「五旬節」と訳しています。「旬」という漢字には10日間という意味があります。

 まず今日の最初にお読みいただいた聖書個所、ヨハネによる福音書20章19節から23節です。「その日、すなわち週の初めの日の夕方」とありますが、「その日」とはどういう日のことでしたか?イエス様が復活された日です。驚くべき出来事はその日の早朝から既に始まっていたのですね。イエス様のお弟子たちが――その時、そこに何人の弟子たちがいたのかはわからないのですが――籠っていた部屋の真ん中に、突然イエス様が立っておられました。どこからどう入って来られたのか誰にもわかりません。幽霊のような存在ではなく、あの生きていらしたイエス様そのものが立っておられることはわかりました。十字架刑の過程で無残な傷跡が残った手と脇腹を弟子たちにお見せになったからです。

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネによる福音書20:21, 22*)

先週までの5週間、ペトロの手紙第一を紐解いてきた私たち、「父がわたしをお遣わしになったように」というイエス様のみ言葉に、ペトロが語っていた次のようなメッセージを重ね合わせずにはいられません。

あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。(ペトロの手紙一 2:21)

天から送られて来られたイエス様は、この地上で「苦難のしもべ」としてのご生涯を送られました。それが父なる神様からイエス様に託されたご使命でありました。お弟子たち、そして信じる私たちも同じようにイエス様から遣わされました。「父がわたしをお遣わしになったように」ですから、私たちにも使命が託されているのです。イエス様の足跡に続いて苦難のしもべとして生きるという使命です**。するとイエス様がその時に、「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけられた理由もよくわかります。苦難のしもべとして生きることと、聖霊を受けてその力と導きのもとに生きることとは、表裏一体の関係にあるからです。ペトロによる次のみ言葉も思い起こしましょう。ペトロの手紙第一4章14節です。

あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

では、ヨハネによる福音書の次のみ言葉は、どういうことになるでしょうか?

だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。 (ヨハネによる福音書20:23)

このみ言葉は、私たちクリスチャンがキリストの福音を伝道するかしないか、そして、聞く人がそれを受け入れるか受け入れないかによって、救いの有無が決まるであろうとおっしゃっているのだと読まれるのが一般的です。しかし私たちはペトロから学びました。苦難のしもべの生き方とは、悪をもって悪に返さない、侮辱をもって侮辱に報いない、それでも祝福をもって返す生き方であると。それによって罪の連鎖が断ち切られる。そして自由への開放が生まれのだと。伝道すること以上に、私たちがどのような生き方をするかということのうちに人々の赦しがかかっている、そのようにこのみ言葉を聞くことができます。


*聖書の引用は、断りがない限り全て新共同訳(©1987 日本聖書協会)からです。

**ヨハネ20章21節の和訳で二回現れる「遣わす」という単語は、もとの原典では、前者は「派遣する」、後者は「送る」と訳し分けることが可能な異なる単語が使われています。だから「父からわたし」の派遣の内容は、「わたし」から「あなたがた」への派遣の内容にそのままあてはめられてはいないと解釈する人もいます。しかしヨハネによる福音書には、同じ言葉を繰りかえすところを別の言葉に言い換えながら変化をつける傾向があります(例えば21:15-17の「愛」)。ここもそれに該当すると考えられます。D. A. Carson, The Gospe according to John (IVP; Eerdmans, 1991), 648.

 それでは、50日間の最初の日から場面を移して、その最後の日に起きた驚くべき出来事、使徒言行録2章の方に参りましょう。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録 2:1-4)

 今日の聖書個所はこの後も21節まで続いていますが、この日に起きた何よりも重要な出来事は全てこの短い一節に言い尽くされています。時は五旬祭すなわちペンテコステの日、場所はお弟子たちが集まっていた家の中です。何人位いたのかは明記されていませんが、同じ使徒言行録1章15節「そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。」の記述から120人位の集まりを想像してみます。まず起きたのが音です。激しく吹く風のような音。風が実際に吹いたのではありません。ただ音だけが鳴り響いたのです。そして、彼らの目の前に出現したもの、それは「舌」だとあります。ちょっと想像するのが難しい光景です。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」と訳されていますので、分かれ分かれに燃え上がる炎の形がまるで「舌」のように見えたのだろうと私たちは読みます。訳された方もそのような情景を思い浮かべられたのでしょう。しかし注意深く読む限り、現れたのは、「舌のような(形をした)炎」ではなく、「炎のような舌」です。どういうことでしょうか?この「舌」という単語は、聖書の原語では「言葉」という意味でも使われます。実際に、今注目している聖書箇所(2章1節から4節)の中の「舌」と「(ほかの国々の)言葉」とは、どちらにも全く同一の単語「グロッサ」が使われているのです。するとどういうことが言えるでしょうか?現れたのが「舌」なのか、「言葉」なのか、それは曖昧なままにしておきましょう。少なくとも、彼らの目に見えたものは「炎のようなもの」です。それを著者は「グロッサ」の出現であると解釈したわけです。「分かれ分かれに」という訳は、訳された方の解釈が強く反映していると思います。ここを直訳すれば、ただ「分かれて」とだけあります。炎先で分岐しているのではなくて、一つ一つがはっきり分離しているのです。またこの単語は「(一人一人のために)分配されて」という意味でも使われます。むしろこちらの意味合いで使われているのではないかと向山は考えています。するとこの情景は、どういうことになるでしょうか?弟子たちの面前に現れたのは、炎のように見える何ものかです。それも一つではなく、そこにいた弟子の人数だけ現れました。そして一人一人の上にとどまりました。すると、弟子たちは他国の言葉で話しだしました。後に続くみ言葉でわかることですが、それは話している本人たちが本来知っているはずがない外国語でありました。話している内容は「神の偉大な業」(2章11節)すなわち福音です。この驚くべき現象について、使徒行伝の著者あるいは実際にその場にいた人々による解き明かしが加えられています。すなわちそれは、一人一人に「言葉」あるいは言葉を話す能力が分け与えられたのだということ。そしてそれらは全て聖霊の働きであったということです。

 今日最初に読んだヨハネ福音書の出来事と、このペンテコステの出来事とを重ね合わせてみましょう。ヨハネ福音書20章21、22節を再掲します。

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

息を吹きかける動作は、最初に神様が人間を創造された時のみ言葉を思い起こさせます。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2章7節)

 キリスト・イエス様が死からよみがえられた時、その日が新しい人々の始まりです。どういう人々の歴史が始まったのでしょうか?聖霊が一人一人の上にとどまっている人々、その力と導きによりイエス様のように生きる人々です。聖書が示す神様を信じ、悔い改めと共にイエス・キリストに従う決心をした人は、聖霊の働きにより、皆、新しい人々の一人となります。イエス様に息を吹き入れられることによって「生きる者」となるのです。この新しい人々にはまだ先があります。イエス様が復活されたように、いつか必ず神様がその人を復活させて下さり、素晴らしい命を生きるようにして下さるということです。

 ペンテコステの日に起きたこと、それは新しい民の始まりです。どういう民がその時起こされたのでしょうか?話す言葉はそれぞれ違っても、皆が、理解し合い、一つとなることができる民です。どうして言葉が異なるのに理解し合えるのでしょうか?人間にとって最も大切なこと、イエス・キリストの福音を信じるということにおいて皆一致しているからです。どうして彼らは一致して信じることができるのでしょうか?皆、イエス様の死により罪を赦され、その復活により新たに生きる者となった人々だからです。どうしてこの民は一つとなることができるのでしょうか?その一人一人の上に、唯一の神様が聖霊としてとどまっておられるからです。
 ペンテコステの出来事は、創世記11章に記されたバベルの出来事が反転して起きたものだと言えます*。有名な「バベルの塔」のことが書かれている箇所ですが、この塔は人類が自分たちを創造した神の存在を無視し、自分たちの利益と虚栄心を満たすことのみを追求しようとしたことの象徴でありました。神様は、それまで全人類が共通して話していた言葉を混乱させ、互いに意思が通じないようにされました。そのために人々は塔の建設を放棄せざるを得なくなりました。そうして人類は地の全面に散らされて生きるようになったのでした。ペンテコステの日、集められていた弟子たちにはキリストの福音という一つの言葉が与えられました。それは私たち人間同士が互いに理解し合うために最も大切な言葉です。その言葉はまた、自分たちがイエス・キリストに従う民であることを自覚させる言葉です。そして、新しい人々を更に生み出していくための種子として用いられる言葉でもあります。最初にその言葉を与えられたのは120人ほどの人々でしたが、その日のうちに3,000人程が新たに加わったと41節に書かれています。まさに聖霊なる神によってもたらされたこの驚くべき出来事が、教会という新しい民を生み出したのです。


*G. K. Beale, and Benjamin L. Gladd. The Story Retold: A Biblical-Theological Introduction to the New Testament (IVP, 2020), 159.

 五旬祭を守り祝うためにエルサレムに集まっていた人々、巡礼者たちは、やがて自分の故郷へとそれぞれ帰っていきます。その中に、新しい民となった数多くの人々が混じっていたはずです。そのようにして新しい言葉、福音が世界各地に伝えられ、新しい民が少しずつ増え広がっていきます。ここにもいます。勿論、私たちのことです。

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

イエス様の息吹を受けた者、それが私たち。それはささやかとさえ感じられる静かな息吹かもしれません。しかし新しい言葉は、私たちにも既に与えられています。私たちの上にも聖霊がとどまっておられます。とすれば、ペンテコステの日、突然鳴り響いた突風のような音は、今日、ここでもまだ響き渡っているはずです。私たちがいるこの部屋にです。

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