5月3日(日)主日家庭礼拝の手引き

それぞれの家庭で主日の礼拝を守るようになり一ヶ月がたちました。でも,私たちになくてはならない絆はキリスト・イエス様のみ。むしろそのことを喜び,感謝しましょう!
「…あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」(ヨハネ4:21, 23から)

礼拝プログラムは,次の「礼拝プログラム」タブをクリックして下さい。このプログラムに沿って,賛美を献げ,祈り,聖書を読みましょう。宣教の部分は下記の説教を読みましょう。

*「ダウンロード」タブからは,印刷用「家庭礼拝の手引き(説教付)」ファイルをダウンロードできます。

聖 書1 新約聖書使徒言行録2章42~47節
賛  美 新生 223 主イエスは尊き(A)
  又は 新生 301 いかなる恵みぞ
          (アメージング・グレイス)
個々の祈り *自由にお祈りを献げましょう
主の祈り
聖 書2 新約聖書 ペトロの手紙一2章1~10節
宣  教 「捨てられた石」
献げもの 新生 658 このささげものを(B)
  又は 新生  51 かみさまありがとう         *賛美の後に,感謝の献げものとお祈りを献げましょう
賛  美 新生讃美歌 674 父 み子 聖霊の
黙  祷

このリンクをクリックすると、印刷用「家庭礼拝の手引き(プログラム、説教付き)」がダウンロードされます。

1 Peter 02.01_10 捨てられた石

 

説教 「捨てられた石」 

+印をクリックすると,説教が段落別に表示されます。

今日のテーマは「捨てられた石」です。捨てられた石。皆さん、石を捨てたご経験はおありですか。人はどんな時に石を捨てるでしょうか。どういう石を捨てるでしょうか。私たちはあまり石を捨てるという経験をすることはありませんが、でも自分が石を捨てる場面を想像するのは、そんなに難しいことではありませんね。今、ご自分が、両手で何かの石を持っている場面を想像して見てください。どうですか?何の変哲もない石。置き石にするにはみすぼらしくて、何かの土台に使うにはあまりにもいびつで不細工な石。どうにも使いようがない、邪魔になるだけの石。ただ放っておくにはあまりにも大きく、あまりにも重い。石というのは、何かに役立つ大切なものとして扱う事もありますが、そういう時以外は邪魔なもの、そこにあっては絶対に困るものとして捨てるしかない。石は、使うか、捨てるか、二つに一つです。中間はありません。

そんな石に、使徒ペトロは主イエス様をなぞらえています。ペトロの手紙第一2章4節です。

 この主のもとに来なさい。
 
主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。

私たちの主イエス・キリストは、世の人々から見捨てられた石、捨てられた石です。人の世は、イエス様と相容れることができません。人々はイエス様を受け容れることができません。それだけでなく、ただひたすら邪魔者にします。憎みます。徹底的に敵対します。何故でしょうか。7節から8節前半です。

 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、
 信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、
 また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。

人々は、イエス様をひたすら邪魔者にします。何故ならば、イエス様というお方はこの世にとって、まったく役に立たないお方だからです。人は、家を建てるのが好きです。自分の家を、自分のために、自分の好みに合わせて、自分の力で建てようとします。石を積み重ねることによって家の土台を作ろうとしている人は、土台ができあがった時の全体像を思い描きながら、その部分部分にうまくはめこむことができそうな石を探し集めます。そこにひときわ人目をひく石があったとします。重量といい、堅さといい、見栄えといい、まさに全ての土台のかなめとするにふさわしい石なのですが、もしそれを使うとどうしても自分の思い描いたとおりの土台を作ることができなくなってしまう。この石を使わなくっちゃという気もしなくはないんだけれども、使うと自分の計画はぶちこわしになってしまう。自分が建築主のはずなのに、まるで自分がこの石に合わせなくてはならなくなる。だから、家を建てる者はそんな石を見つけたとしても、結局は捨ててしまいます。
イエス様というお方は、人々の思惑や計画にご自身を合わせるということを決してなさいません。イエス様と相対する限り、人は自分の計画や夢をすべて捨て去って、自分の方がイエス様に従わなくてはならなくなります。私達人間がイエス様というお方を有効利用するなんてことは絶対にできません。ですから、世の人々にとってこの方は、全く役に立たない石なのです。

世は、イエス様を憎みます。憎むことしかできません。何故ならばイエス様は信じない人々にとっては「つまずきの石」だからです。人が石につまずくのは、そこに石があるにもかかわらず、ないかのようにして進むからです。ここをこのまま歩いていけば、自分の足が石にあたってしまう。するとつまずく。転んでしまう。つまずいた人は、それで大変痛い思いをする。イエス様の存在は、私たちが普段は見ていないもの、見えないものを見えるようにしてしまう。普段は自分でも全く気がつくことなく過ごしてしまう私たちの内側にあるもの、罪を、イエス様は出会う者すべてに対して明らかにされる。イエス様を前にすると、自分の罪の醜さを見ないでいることができなくなります。イエス様は鏡のようなお方だからです。「鏡を見よう」と言います。実際に私達は鏡に目を向けます。でも見えてくるのは自分自身です。鏡にまっすぐ相対した私たちは、そこに映る自分自身の姿を見ることなしに鏡だけを見ることができません。自分自身を見たくないのであれば、顔をそむけるか、目を閉じるかすれば良い。でも、同時にその鏡も見ることができなくなります。イエス様という鏡は、私たちの視線の中をまっすぐに近寄ってこられます。私たちのすぐそば、目と目とを合わせずにはいられないところまで近づいてこられます。しかし、私達にとってそこに映る自分の罪の姿は、あまりにも驚きであり、あまりにも醜い。見ることは私たちの心に深い痛みを引き起こします。だから私達は見たくない。だから、私達は信じたくない。だからイエス様はつまづきの石、邪魔な存在なのです。

人は、イエス様を憎みます。徹底的に憎みます。何故ならばイエス様は信じない者にとって「妨げの岩」であるからです。何を妨げるのでしょうか。私たちが自分の思うがままに生き、自分が望むとおりの人生を歩むことを妨げられます。何故ならば、イエス様を前にした人間は、自分が自分自身の神になることは決してできないということ、自分の思い通りの神、偶像を作ったり、想定したりして、それを思い通りに拝むことのうちに全ての悲惨さ、罪の根源があること、そして、自分が本来従うべき真の神が、目の前で自分を見つめておられることを感じずにはいられないからです。自分は真の神に従うのか。それとも自分が自分の神になるのか。選択肢は2つに一つ。だから、イエス様という石を、私たちは受け容れて愛するか、拒否して憎むか、どちらかしかできないのです。

 この主のもとに来なさい。
 主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。


イエス様は世の人々から邪魔にされ、憎まれ、十字架にかけられて捨てられました。しかし、神様にとっては選ばれた石です。尊い石、今も生きておられる石です。真の神の存在を無視して生きようとする人間は、神様の目から見れば死んだ石です。しかし、主イエス・キリストのもとに集まる時、死んだ石が蘇って生きた石となります。

 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。
 そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。


一人一人が生きた石として互いに組み合わさり、支え合って一つの家に造り上げられます。そこには愛があります。イエス様の苦難と死、復活を通して私達に示された神様の愛です。集められた私達は、新しく生まれた者となり、唯一の神様を父とする家族として愛し合います。支え合います。忍び会います。仕え合います。それが教会です。

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