5月24日(日)主日家庭礼拝の手引き

説教 「キリストの教会」 

+印をクリックすると,説教が段落別に表示されます。

「ペトロの手紙第一」からの説教は、今回が最後です。福音書に描かれているペトロは、直情型の単細胞、少しおっちょこちょいにさえ見える人物ですが、彼が書いたこの手紙には驚くべき奥深さがあります。その奥深さを物語っていることの一つが、旧約聖書からの引用です。旧約聖書の言葉とペトロ自身の言葉とが、横糸と縦糸のように織り合わさって絵模様を浮かび上がらせています。それらの絵柄は一見単純そうに見えて、実のところ大変な熟達さをもってしなければ決して織り出すことができない、それがペトロの手紙のメッセージ。今回で終了させなければならないのが惜しく感じられます。

ペトロの手紙は、読者たちにクリスチャンとしてのアイデンティティを確認させる手紙です。アイデンティティとは、「あなた方は何者か?」ということです。「あなた方は何者?」「クリスチャンです。」「ではクリスチャンであるということは、どういう人間であることなのですか?」と追及していきます。ペトロはそれを、色々な言葉を使って読者たちに確認させようとしています。「あなた方は、仮住まいをしている者です。」「選ばれた者です。」「聖なる者たちです。」「新たに生まれた者です」…といった具合にです。それらの中でも中心になっているのが「しもべ(僕)」という言葉です。
自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神のしもべとして行動しなさい。(ペトロの手紙一 2章16節)*
私達クリスチャンは皆、しもべです。真の神のしもべであり、私達を救い出してくださったイエス・キリストのしもべです。何故、ペトロは私達に「しもべ」であることを自覚させたいのでしょうか?私達を自由にするためです。何からの自由でしょうか?人間の支配から、社会の支配から、そして自分自身から自由にするためです。しもべとは本来、誰かに従うべき存在です。しもべは皆、自分の主人に従わなければなりません。「神のしもべとして行動しなさい」ということは、神様に従いなさいということです。しかしペトロの手紙は、神様にだけでなく、その他の人間たちにもしもべとして従うべき存在であると主張しているかのようです。実際、しもべという言葉と同時に、「従いなさい」「(人を)敬いなさい」「謙虚になりなさい」という勧め、あるいは命令が繰り返されているのは、だれの目にも明らかです。
*今日の聖書は特に断りがない限り、全て新共同訳聖書(©1987 日本聖書協会)から引用しています。

ここで疑問が出てきます。何故しもべであることを自覚することが、私達を自由にすることになるのだろうか?という疑問です。それを理解するカギが、今日の箇所の最後、4章13節14節と、その横糸となっている旧約聖書イザヤ書のみ言葉にあります。まずペトロの手紙一 4章13、14節です。

むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

ペトロが読者に対して、「すべての人を敬い」(2章17節)、「無慈悲な主人に」さえも従い(同18節)、また「自分の夫に」(3章1節)も従うことを勧めるのは、私たちの主であるイエス様ご自身が、しもべとして生きられたお方だからです。(3章1節のみ言葉をもって、何が何でも夫に服従することが妻の義務であるかのように決めつけることはできないということを注意しておきます。それはペトロの主旨にも反します。)イエス様だからこそできたことがあります。全ての人の上に立つ神であるにもかかわらず、全ての人に仕えるしもべとなられたということです。それは、ご自身の立場や相手からの反応に全く左右されることなく、完全に自由な方として自ら選び取られた行動です。そのような行動によって何が起きたでしょうか?悪の連鎖が断ち切られました。悪をもって悪に返さない、侮辱をもって侮辱に報いない、それでも祝福をもって返す(ペトロの手紙一 3章9節)という正しい生き方が示されました。そして、罪人である私たちが救われる道が開かれました。だから私たちクリスチャンも、イエス様のようにしもべとなります。強制されてではなく、神には従う者、人には自由な人間としてそれを選びとるのです。イエス様にならうことを自ら選択したのですから、それは喜びでもあります。「悪をもって悪に返さない、侮辱をもって侮辱に報いない、それでも祝福をもって返す」のがしもべですから、当然そこには苦しみが伴います。しかしその苦しみを、イエス様が受けられた苦しみと同じ苦しみとして敢えて受け入れることをした時、喜びが生まれます。自分がイエス様に似せられたしもべであることを自覚できるからです。

彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。…(イザヤ書53章4節、5節前半)

旧約聖書のイザヤ書に出てくる「彼」、この不思議な人物のことを教会は「苦難のしもべ」と呼んでいます。苦難のしもべはイエス様を指して告げられた預言です。私達のことではありません。しかし実際にイエス様が、この苦難のしもべの預言を体現した方として歴史上に姿を現わされ、十字架上の死と復活を成し遂げられた後は、その救いを信じて生きる私達が苦難のしもべとなります。自分が受ける苦しみに対して敢えて祝福を返すことによって、罪の連鎖を断ち切り、癒しと平和をもたらす苦難のしもべです。勿論、弱い私たち自身の力でできることでは決してありません。ところが、そのできないはずのことを可能にする驚くべき奇跡が、神様によって起こされていることを、先ほどのペトロの言葉(4章14節)が示しています。どのような奇跡でしょうか?「栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださる」という奇跡です。これは何を意味しているでしょうか?再び横糸となっているイザヤ書からのみ言葉です。

その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。(イザヤ書 11章2節、3節前半)

しもべこそは、神様によって自由にされた者。その人の上にとどまり、決して離れることがない聖霊によって、知恵、識別、思慮、そして勇気を与えられた者。真の神を知り、その方を畏れ敬うからこそ、人の世のいかなる偽り、いかなる偏見、いかなる圧力にも左右されない自由な人。だから私たちは、どんな苦しみの中でも喜ぶことができる。どんなに弱く小さくとも、立ち続けることができる。苦難のしもべイエス様を見上げ続ける限り、聖霊の臨在がその計り知れない力をもって、しもべである私たちを満たし続ける。

教会は、そんなしもべたちが集まって礼拝を献げる場だということができます。集まらないではいられない…そうではないですか?私たちが本当にしもべとして生きているのでしたら。しもべとして生きる選択には、なんらかの苦しみが必ず伴います。手紙が書かれた当時の社会的状況から言えば、その家の家長が帰依する宗教に反して家族やしもべたちの誰かがキリスト教に入信することは、大変な怒りと迫害を引き起こすことでした。村八分のような扱いを受けることもあったと言います。そんなクリスチャンたちにとって、礼拝の場に集い合うことがどんなに喜びであり、慰めであり、心の拠り所であったか想像するに難くありません。教会は、まさにお一人の父のもとに集う兄弟姉妹たち、家族のような存在でありました。

今日の箇所の前半、4章の7節からは、そんな教会に集う者たちに対しての勧めが、要点としてまとめられたものです。

万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
不平を言わずにもてなし合いなさい。 (ペトロの手紙一 4章7~9節)

最初の7節は、新改訳聖書の方がより直訳に近い訳をしています。

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)

クリスチャンが祈るのは当然です。真の神様に心を向けて生きること、それが祈りだからです。「心を整え身を慎みなさい」とは、ものごとを正しく判断できるように平常を保ち続けなさいという意味です。正しく判断できることが、何故祈ることのためになるのでしょうか?「祈りましょう」と口では簡単に言えたとしても、実際に祈りを実践し続けることはそう簡単なことではないことを私達クリスチャンは知っています。祈りを妨げるものは何でしょうか?「祈ってもしょうがない、何も起こらない」と感じてしまうことです。私達の心にそのような思いを生じさせるのは何でしょうか?苦しみが続くことです。だから、私たちにこの苦しみが与えられているのは何故かを正しく判断する必要があります。神のしもべとしての自由を与えられ、知恵、識別、思慮、勇気、主を知り、畏れ敬う心が聖霊によって与えられている私たちにはそれがわかります。苦しむのは何故だったでしょうか?私たちが苦難のしもべであるからです。

「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。」しもべたちが行う行動の全ての動機は愛です。神様への愛、そして隣人たちへの愛です。しかし、人間が集まるところには、必ず軋みが生じます。反発したい心が生まれてきます。どうしても傷ついてしまう人が出てしまうのです。教会が、本当にしもべたちの集まりなのかどうかがここで明るみに出ます。教会の中で起こされる罪を無視しろというのでは決してありません。罪は必ず正されなければなりません。しかしそれが、争いや分裂につながることがないようにということです。だから教会は、しもべとして愛し合うことを常に最優先の課題としていく必要があります。人間にはできないことですが、しもべである私たちには希望があります。私たちの上に主の霊がとどまっておられるから、そして「愛は多くの罪を覆うからです。」

「不平を言わずにもてなし合いなさい」は、集会に必要な様々な奉仕について言及しているのだと考えられます。ペトロの時代の礼拝は、会堂にではなく、個人の家庭に集まることによって献げられる礼拝でした。当然、ホストとなる家族による受け入れともてなしが必要となります。幾つかの家庭が持ち回りでホストを務めるとすれば、「もてなし合い」となります。クリスチャンに対する偏見や反発が強い社会の中では、そのような集会を我が家に迎え入れること自体が大きなリスクを背負うことになります。それでも、しもべたちは「もてなし合い」ました。それをしなければ、集まることができなくなってしまうからです。「不平を言わずに」受け入れ合いました。その集まりが、しもべたち一人ひとりにとって、かけがえのない喜びであり、慰めと励ましの場であることを彼ら自身が知っているからです。彼らには、自分たちとそりが合わないような人や自分たちにとって受け入れることがリスクとなる可能性がある人さえも、「不平を言わずにもてなす」必要があります。それが、イエス様のなされたことだから、それがしもべにとっての最大の喜びであるから、そしてそれこそは「キリストの教会」であるからです。

ペトロの手紙は、私たちの教会、わたしたちの集いが、実は大変な場所であることを教えてくれました。どういう意味で大変なのでしょうか?それは苦難のしもべたちが集まるところです。主を知り、畏れ敬う霊が、聖霊の現臨により降り注がれるところです。そして、未来に起こるはずの復活の喜びがまさに今、満ちあふれ出てくる、そんな奇跡が起きている場であるからです。


この説教の作成にあたっては、Karen H. Jobes, 1 Peter (Baker, 2005); Joel B. Green, 1 Peter (Eerdmans, 2007); G. K. Beale, The Story Retold (IVP, 2020)を参考にしています。
タイトルとURLをコピーしました