5月17日(日)主日家庭礼拝の手引き

それぞれの家庭で主日の礼拝を守るようになり一ヶ月がたちました。でも,私たちになくてはならない絆はキリスト・イエス様のみ。むしろそのことを喜び,感謝しましょう!
「…あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」(ヨハネ4:21, 23から)

礼拝プログラムは,次の「礼拝プログラム」タブをクリックして下さい。このプログラムに沿って,賛美を献げ,祈り,聖書を読みましょう。宣教の部分は下記の説教を読みましょう。

*「ダウンロード」タブからは,印刷用「家庭礼拝の手引き(説教付)」ファイルをダウンロードできます。

聖 書1 新約聖書ヨハネによる福音書14章15~21節
賛  美 新生 408 救い主なるイエス君は
  又は 新生 301 いかなる恵みぞ
          (アメージング・グレイス)
個々の祈り *自由にお祈りを献げましょう
主の祈り
聖 書2 新約聖書 ペトロの手紙一3章13~22節
宣  教 「バプテスマの教会」
献げもの 新生 658 このささげものを(B)
  又は 新生  51 かみさまありがとう         *賛美の後に,感謝の献げものとお祈りを献げましょう
賛  美 新生讃美歌 674 父 み子 聖霊の
黙  祷

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1 Peter 03.13_22 バプテスマの教会 for FuBC

説教 「バプテスマの教会」 

+印をクリックすると,説教が段落別に表示されます。

今日のテーマは「バプテスマの教会」です。イエス・キリストの福音を信じてクリスチャンとなった人は皆、バプテスマを受けます。とすれば、キリスト教会は全て「バプテスマの教会」だということができます*。
この数週間ご一緒に読み進めているペトロの手紙第一にも、「バプテスマ」の文字が見えます。3章21節です。新共同訳聖書で読んでおられる方が多いと思いますが、ここでは聖書協会共同訳が大変分かりやすく訳し直しているので、そこから引用します。(今回の説教は、全て聖書協会共同訳からの引用です。)

この水は、バプテスマを象徴するものであって、イエス・キリストの復活によって今やあなたがたをも救うのです。バプテスマは、肉の汚れを取り除くことではなく、正しい良心が神に対して行う誓約です。

バプテスマという儀式は、何を表しているのでしょうか?使徒ペトロによるこの言葉は3つのことを教えています。第一に、水によって象徴された儀式であること、第二に、私達の救いに直結した儀式であること、第三に、それは誓約の儀式であるということです。


*日本で多くの教会に使用されている新共同訳聖書は、「洗礼バプテスマ」と表記しています。新共同訳に次いでよく使用されている新改訳聖書では「バプテスマ」というカタカナだけの表記です。私達バプテスト教会に集う信者たちは、額に水を注ぎかける方式ではなく全身を水中に浸す方式だけを指して「バプテスマ」という言葉を使うことが多いのですが、今日のこの説教では注ぎかける方式も含めて「バプテスマ」と呼んでいます。

一番目の「水」について見てみます。19節、20節を見ると、それはノアの時代に起きた洪水の水を指していることがわかります。旧約聖書創世記6章から8章に記されている洪水です。人の世に腐敗と暴虐が満ちているのを見て、神は大洪水を計画されます*。ノアと彼の家族だけが神の言葉に従い、巨大な箱舟を造ることによって大洪水の難から逃れることができたと聖書は記しています。全人類が滅びました。自らの悪と暴虐の故です。8人だけが救われました。神様のみ言葉に従ったことによってです。ノアが、おそらく何十年もの月日をかけて箱舟を建設している間、神様は「忍耐して待っておられた」と20節にあります。当時の人々にとって、自分たちの身に危機が迫っていることを示していたのは、ただノアに与えられた神の言葉だけでありました。彼が語り伝えるみ言葉を信じて箱舟造りに身を投じ、社会の嘲笑を浴び続けていくのか、その他圧倒的大勢の人々と共にこれまでと同様の生活を続けていくのか、それが救われるかどうかの分かれ目でした。

僅か八名だけが、この箱舟に乗り込み、水を通って救われました。(20節後半)

ノアの時代の洪水と、私達が受けるバプテスマとの二つを結びつけるシンボル、それが「水」です。しかしペトロが言おうとしていることは、水そのものよりも、神様を信じてそのみ言葉に従ったことがノア達の救いにつながった点にあります。


*旧約聖書創世記6~8章「ノアの時代の洪水」についてのみ限定した記述です。人が洪水やその他の自然災害を被る原因はその人自身の罪責にあると主張しているのでは決してありません。聖書にもそのような考え方は記されていません。

二番目は、バプテスマは私達の救いに直結した儀式であることについてです。バプテスマという儀式が私達を救うのではありません。それは「肉の汚れを取り除くことではな(い)」と書かれていることからもわかります。では何が私達を救うのでしょうか?「イエス・キリストの復活によって」とあります。ペトロは「復活によって」のところを「復活を通して」とも訳せる単語で記しています。つまり、20節の「水を通って」と対比させて語っているようです*。するとこういうことになります。ノアたちは「箱舟に乗り込み、水を通って救われました。」それに対して、私達はイエス・キリストの死と復活を通って救われるのだと言っているのです。いわば、私達がイエス様という方にしがみつき――(イエス様に)「乗り込み」ではふさわしくないので「しがみつき」――その苦しみと死をも共に体験しながら復活へと導かれていくというイメージです。

    ノアたちは  箱船に乗り込み     水を通って救われた。
    私達は    イエス様にしがみつき  死と復活を通して救われる。

バプテスマはイエス・キリストの死と復活を表した儀式。確かにそうです。水の中に沈められることはイエス様と共に死ぬことを表し、水の中からあげられることはイエス様と共に復活することを表しています。それを通して私達は新たな人生を歩み始める。まさにバプテスマこそは、救われた者皆が受けるにふさわしい儀式、そして全ての教会は確かにバプテスマの教会であると言えます。


*21節の「(復活)によって」という言葉と20節の「(水)を通って」という言葉とは、元のギリシャ語では同一の単語です。

これらのみ言葉と、18節後半から20節までに書かれているちょっと不思議なみ言葉との関連について簡単に見ておきます。

キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。
こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました。
これらの霊は、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちのことです。僅か八名だけが、この箱舟に乗り込み、水を通って救われました。

イエス様が十字架上で息を引き取られた金曜日から復活される日曜日の朝までの間に、死者の魂の行き先である黄泉に下られて宣教をなさった。それらの魂の中に洪水によって滅ぼされた魂が含まれていたというのが伝統的な読み方です。しかし現在は、次のような読み方が多くの注解者たちの支持を集めつつあります*。

「捕らわれの霊」とは死者の霊ではなく、悪霊です。もともとは天使由来――つまり神に反逆した元天使、あるいはその子孫。天使らしき者たちの子孫のことは創世記6章4節にその存在が示唆されています――なのですが、神によって天上に戻ることを禁じられているが故に、「捕らわれの霊」と呼ばれています。これらの霊が及ぼす影響の故に、人間たちの心が常に悪に傾くようになります。ノアの時代、人の世に悪と暴虐をおし広げて人類絶滅の危機を招く程であった悪霊たちが、その後も人の心を支配し続けます。そんな悪霊たちに対してイエス様が宣言をされました**。何を宣言されたのでしょうか?人間を支配し続けていた悪に対する勝利の宣言です。いつ宣言されたのでしょうか?復活の前ではなく、復活された後です。どこで宣言されたのでしょうか?天に昇られてです。「捕らわれの霊たちのところへ行って」とありますが、地上あるいは空中をうごめく全ての悪霊達に宣言できるところと言えば天になります。

これで、ペトロが「捕らわれの霊たち」をわざわざここで持ち出した理由も明らかです。18節の前半に

キリストも、正しい方でありながら、正しくない者たちのために、罪のゆえにただ一度苦しまれました。あなたがたを神のもとへ導くためです。

とあります。私たち人間を悪へと導き続けている「捕らわれの霊たち」の影響を断ち切り、自らが導き手となって神様のもとに立ち帰らせる。そのためにイエス様は苦しみを受け、十字架で死なれました。その復活こそは、神の力の宣言です。どんな悪や罪の力も、全人類に運命づけられたはずの死さえも、神様の救いを押しとどめることはできない、そのことの証明です。だから私達は今、十字架の福音を心から信じることができます。だから私達はこれまでの生き方を断ち切り、ただイエス様のみに従っていく決心をすることができます。イエス様にひたすらしがみつき、復活へと導いていただこうと全ての希望をそこに託すことができるのです。


*Karen H. Jobes, 1 Peter (Baker, 2005)を参考にしています。解釈の根拠も示さなければならないところですが、「手引き」の範囲を超えますので割愛いたします。
**「宣教」「宣言」どちらの訳も可能なギリシャ語です。新改訳は「み言葉を宣べられた」、新改訳2017は「宣言されました」と訳しています。

ペトロが3章21節で語る「バプテスマとは何か?」その第三です。もう一度21節後半を引用いたします。

バプテスマは、肉の汚れを取り除くことではなく、正しい良心が神に対して行う誓約です。

バプテスマは、「神に対して行う誓約」です。何を誓約するのでしょうか?神様のみ言葉に従うことです。イエス様にしがみつくようにして、その後をついていくことです。何故、誓約するのでしょうか?もしバプテスマが、私達の「肉の汚れを取り除くこと」ができるのならば、もしバプテスマを受けることで私達の心がきよくなり、幸せな人生を送ることができるようになるのならば、誓約はいりません。ただ、入信のための儀式として受ければよいのです。でも「そうではない」とみ言葉は断言しています。このペトロの手紙全体が「そうではない」ということを私達に繰り返し語りかけています。信じたものが歩む道、それは私たち自身が選びとる道だから誓約が必要なのです。クリスチャンになるということは、ただ神様やイエス・キリストの存在を信じるということではありません。生き方が変わり、人生が変わる程に信じるということです。自動的に変わるのではありません。信じるが故にイエス様に従う考え方を選択をし、信じるが故にイエス様に従う行動を選択するようになるということです。「正しい良心」とありますが、聖書が言う「良心」とは、私達が持っている「良心」へのイメージとは異なります。ここでペトロが言おうとしているのは、神様の存在を意識しながら日々の生き方を選択していくこと(それが「正しい良心」の意味)、それを誓約するという意味です。

私達は神様に「呼び出された者」、教会はその集まりです*。呼び出された者は皆、バプテスマを受けます。だから教会は「バプテスマの教会」、誓約をした者達が共に同じ道を歩もうと集まってきた群れなのです。
それは平坦な道では決してありません。しかし私達は敢えてそのような道に分け入っていきます。疲れます。時に転びます。怪我をすることもあるでしょう。恐怖に怯え一歩も前に進めなくなること、後悔して元の方向に引き返したくなることもあるかもしれません。それでも私達は互いに支え合い、励まし合いながらその道を歩いて参ります。み言葉を信じて箱舟を造り続けたノアのように、私達もイエス様が必ず素晴らしい救いへ導いてくださることを心から信じ、待ち望んでいるからです。


*先週5月10日の「家庭礼拝の手引き」をご覧ください。
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