5月10日(日)主日家庭礼拝の手引き

それぞれの家庭で主日の礼拝を守るようになり一ヶ月がたちました。でも,私たちになくてはならない絆はキリスト・イエス様のみ。むしろそのことを喜び,感謝しましょう!
「…あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」(ヨハネ4:21, 23から)

礼拝プログラムは,次の「礼拝プログラム」タブをクリックして下さい。このプログラムに沿って,賛美を献げ,祈り,聖書を読みましょう。宣教の部分は下記の説教を読みましょう。

*「ダウンロード」タブからは,印刷用「家庭礼拝の手引き(説教付)」ファイルをダウンロードできます。

聖 書1 新約聖書ヨハネによる福音書14章1~7節
賛  美 新生 363 キリスト 教会の主よ
  又は 新生 301 いかなる恵みぞ
          (アメージング・グレイス)
個々の祈り *自由にお祈りを献げましょう
主の祈り
聖 書2 新約聖書 ペトロの手紙一2章19~25節
宣  教 「呼び出された者達」
献げもの 新生 658 このささげものを(B)
  又は 新生  51 かみさまありがとう         *賛美の後に,感謝の献げものとお祈りを献げましょう
賛  美 新生讃美歌 674 父 み子 聖霊の
黙  祷

このリンクをクリックすると、印刷用「家庭礼拝の手引き(プログラム、説教付き)」がダウンロードされます。

1 Peter 02.19_25 呼び出された者達

説教 「呼び出された者達」 

+印をクリックすると,説教が段落別に表示されます。

 私達夫婦がこの教会(福山バプテスト教会)の皆様と共に歩ませていただくようになり,この5月で3年となります。教会の皆さま,お祈りと励ましで支え続けて下さり本当にありがとうございます。

 私達が福山に来た時,教会の庭の片隅には小さなバラの苗が一本植えられていました。小ぶりの花を一,二輪咲かせてはいましたが,陽当たりが良くない場所であったせいか成長が悪く,弱る一方でしたので,鉢に植え直して見守ることにしました。3年目になって大きく枝葉を伸ばす様になり,こんもりとした美しい鉢植えに成長しました。今,大きなつぼみを沢山つけて,日に日に膨らませています。もうすぐ黄色い花で一杯になります。

 私達の教会も,ゆっくりと根を充実させながら栄養を蓄えてきました。枝葉を伸ばしていくのはこれからです。だからまだこれといった形がありません。形がないということは,逆に色々な可能性を秘めているということでもあります。
 福山バプテスト教会はどんな教会であって欲しいですか?教会の皆さんには,3年前初めてお会いしたときから問い続けてきました。今も問い続けます。まだ答えが出ていないからです。ご一緒に歩みながら共に祈り,共に答えを探し求めていく問いだからです。この教会には「今まではこうだったから」とこだわるものがありません。これから皆で形作っていく教会です。だから未知の可能性があります。最近教会の礼拝に集って下さるようになった方も――今はコロナウィルス事情で集うことができていませんけれども――これからおいで下さるご予定の方も,是非,その答え探しに加わって下さい。喜び,癒し,愛,希望。そんな集いを夢見ながら手作りの教会をご一緒に形作っていきませんか?

 教会の礼拝で集団感染が起きることを防ぐために,先月から会堂に集まることをせず,各家庭でそれぞれ礼拝を献げています。日曜日のその時間,牧師の私は一人会堂で礼拝をお献げしています。静かな礼拝です。その他の日も外出をできるだけ控えてておりますので一週間が本当に静かに過ぎていきます。その静けさは「教会って何だろう」と思い巡らす良い機会を私達に与えてくれていると思います。


コロナウィルス禍そのものは決して歓迎できるものではありません。コロナウィルス感染の世界的拡大は惨事です。亡くなられた方,今,闘病しておられる方,そのご家族方の苦しみ,悲しみ。また介護等の助けを受けることが困難になった方,経済的ダメージを受けて生活が成り立たなくなってしまった方等,その悪影響には計り知れないものがあります。祈ります。命をかけて闘っておられる医療関係者を初めとする方々,少しでも早い終息に向けて日夜働いておられる方々のためにも祈ります。神様にただお祈りする。それが今の私達にできることです。


 教会は集まりです。人が集まることで初めて教会が成立します。とすれば,集まることを妨げられている今の私達は本当に特別な状況に置かれていると言えます。私達は集まりたい。手紙・メールの文字や,電話の声,コンピューターの映像を通してではなく,直接友人達に会い,一緒に礼拝を献げたい。そういう気持ちが一人一人にあるからこそ,教会は続いてきました。集まることが礼拝出席への義務感だけでなされていたのだったら続いてこなかったかも知れません。自分と同じ神イエス・キリストを信じている人々,それは神様からのギフト(賜物)です。その人々と共に週毎に集う,それは信じているからこその特権です。それらの友人たちと共に生きていく,それが私達のこの上ない喜びです。
しかしそれがギフトであり,特権であり,喜びであることを私達は忘れてしまい易いのです。

 ペトロの手紙第一2章21節に注目します。

あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。

 「あなたがたが召されたのはこのため」だと聖書は教えます。「召された」というのは呼び出されたという意味です。誰が誰を呼び出したのですか?神様が,私達一人一人を,です。このみ言葉は非常に重要な意味を持っています。私達教会が存在している理由はまさにここにあると明確に教えているみ言葉だからです。神様が呼んでおられます。目には見えない神様が,耳に聞こえない
声で,呼んでおられます。それに応答して呼び出された者達,呼び出されて集められた群れ,それが教会です。しかし私達はただ集まるために呼び出されたのではありません。
 キリスト・イエス様が私達のために残された模範があります。人生をいかに歩むかということの模範です。その足跡に従って生きることを神様は求めておられる。それが私達が呼び出された理由です。ここで「模範」と訳されている言葉は,子ども達が文字を習い覚えるために使うお手本を指すのに使う言葉だそうです。文字を覚えるには与えられた手本を忠実になぞりながら習わなければならない,そんな強い意味がここには込められているようです。どんな手本でしょうか?続く22節から24節です。

「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

 「(キリストは)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。」まさに,聖書が,そして教会が語り伝えてきたメッセージの中心,救いの福音がここにあります。私達が教会の礼拝に集うクリスチャンとなったのはこの福音を信じたからです。「信じた,だから教会に集う,そして礼拝する。」それが,福音に対して私達の多くがなしてきた応答です。しかしペトロの手紙第一が語る福音は,別の応答を私達に呼びかけています。「信じた,だからイエス・キリストの手本に従って生きる,だから共に集い,礼拝する」です。私達は,信者になったからただ教会に集うのではありません。それが信者の義務だという理由だけで礼拝をしているのではありません。私達はイエス・キリストという生き方に呼び出された者です。どんな生き方ですか?

ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。


 そういう生き方です。少し前の19節、20節は、その生き方を次のように要約しています。すなわち、善を行って不当な苦しみを受けても、それを耐え忍ぶ生き方です。

 「私達にはできません!」そうです。私達にはとてもそんな生き方ができそうにありません。何故できそうにないかというと,それは人の通常の生き方とは全く異なる生き方,常識に相反しているとも言える生き方だからです。しかし,常軌を逸しているとも言えるそんな生き方にこそ,神様はあなた方を呼び出されたのだと聖書は言っています。第一ペトロのこの箇所は,そういう意味にしかとりようがありません。

 「私達にはできません!」そうでしょうか?そんな生き方を完璧に生きることが出来る人はいないでしょう。イエス様を除いてです。しかし,完璧からは遥かに遠いとしても,イエス様の素晴らしさ,イエス様の優しさ,イエス様の強さ,愛の深さ,広さを味わった人は,そんな生き方に憧れるのではないでしょうか?そんな生き方に自らを少しでも近づけようとするのではないでしょうか?少なくとも,イエス様を愛し,その生き方に憧れ,その後ろ姿を懸命に追っていこうとする,そんな生き方に神様が呼び出されているのだとすれば,「できません」の一言で私達はその声を無視することができるのでしょうか?

 呼び出された者が歩む道は,決して平坦ではありません。いつもではありませんが,時として世の通常とは異なる生き方を貫かなければならないことも出てくるからです。私達はそんな時,心の中で強いプレッシャーを感じないではいられません。実際に人々からの反感を買うこともあるでしょうし,その前に自分の中で怖気付いてしまうこともあります。呼び出された者の人生には,そんな不安定さやストレスがどうしても伴います。ペトロが読者に向かって「旅人であり,仮住まいの身」にある者として呼びかけるのはそのためです(2章11節)。そして,私達がそのような道に少しでも踏み出しているのであれば,教会として集まることの意味も心から納得できるはずです。「信じた,だからイエス・キリストの手本に従って生きる,だから共に集い,礼拝する。」そうです。共にイエス様の足跡に続く生き方へと呼び出された者,その人たちこそ神様から私達へのギフト,励まし合い,慰め合い,共に助け合いながら生きるかけがえのない友人たちであることがわかるからです。
 義務ではありません。喜びです。イエス様の生き方へと呼び出された者の心に,自然と湧き上がってくる喜びです。だから私達は集まる。だから私達は共に愛するイエス様を礼拝する。だから私達は教会となる。そうだとすれば,そしてそれだけが教会の集まりに必要なものであるとすれば,実際に集まることができないでいる今の私達にも,実は欠けていることは何もないことになります。私達の間を結びつけている絆はただ一つ,「魂の牧者であり、監督者である方(2章25節)」イエス・キリストだけだからです。


この説教の作成にあたっては,チャールズ・ヘルマー氏のブログ “ボンヘッファーとCOVID-19:孤立の中の『共に生きる生活』”(https://academic.logos.com/bonhoeffer-and-covid-19-life-together-in-isolation/)から多くの示唆を得ました。
また「模範」(ペトロ一2:21)の解釈についてはKaren H. Jobes, 1 Peter (Baker, 2005)に負っています。

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