4月26日(日)主日家庭礼拝の手引き

説教 「私達の礼拝」 

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それぞれの家庭で献げる日曜日の礼拝,今日で3回目になりました。新型コロナウィルスに感染する方の数が増え続けていますので,この1,2週間で元の礼拝に戻るのは難しそうです。いつまでこの状態が続くのでしょうか?1ヶ月でしょうか?2ヶ月でしょうか?3ヶ月?もしかすると半年?それとも一年?私たちにはわかりません。今,確信を持ってそれを予見できる人はいません。

私たちはその時を心待ちにしています。あの会堂に再び集まり,皆さんと共に礼拝をお献げできるその時を。今,お献げしているこの家庭礼拝も立派な「礼拝」には違いありません。神様,聖書のみ言葉,信じる私たち。礼拝に必要なものがそれぞれのご家庭に揃っています。欠けているものはありません。それでも私たちは共に集まるその日を心待ちにします。何故でしょうか?各自がそれぞれ静かに礼拝をお献げしているこの期間は,それを振り返る良い機会でもあります。私たちの礼拝について,教会について,そして信仰について静かに振り返るひとときを,皆さん一人一人に持っていただければと思います。

あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。(ペトロの手紙第一1:22)

何故私たちは教会に集まって礼拝を献げてきたのでしょうか?「必要なものはそれぞれの家庭に揃っている」と申し上げました。ならば何故,教会に集まる必要があるのでしょうか?私達は「教会に行く」と言う。確かに福山市沖野上町3丁目の一画には,私たちの教会「福山バプテスト教会」の建物がある。でも,厳密に言えばそれが教会なのではない。教会とは,私達一人一人が集まったときにできる群れのことだから。集まるのはどこでもいい。沖野上の会堂ではなくとも,どなたか個人のご自宅であっても,公園であっても,川べりの空き地であっても,イエス・キリストの福音を信じる者達が集まれば,その群れが教会となる。では,何故私達は集まるのでしょう?皆と一緒に礼拝をするためですか?何故,一緒になって礼拝しなければならなければならないのですか?牧師の説教を聞くため?奏楽に合わせて賛美するため?主の晩餐式を守るため?様々な理由を挙げることができるかも知れない。しかし何よりも根本的な理由の一つを,私達は今日のみ言葉の中に見いだすことができます。
その理由とは、兄弟愛,信じる者の間で生まれる愛です。もちろん「兄弟」というのは男性信者だけを指しているのではありません。性別を超えて,ただ信仰という絆の内に交わされる愛です。この愛は,ただ仲が良いのとは違います。「真理を受け入れ」たことによって「抱くようになった」愛だとみ言葉が言っています。ですからそれは福音を信じた人特有の愛,そして信じた人皆が抱くであろう特別な愛です。「清い心で深く愛し合いなさい」とみ言葉は勧めています。だからその愛は,私達が互いに漫然と好意を抱き合っているのとも異なります。

それ程に強く,深い愛が私達の間にあるのならば,確かに私達は互いに集まろうとすることでしょう。集まることができないでいる間は,その日その時を心待ちにすることでしょう。聖書の神を信じる者という日本社会の中では決定的に少数派である私達ですから,もしそのような愛が心に宿っているならば,集って共に献げる礼拝こそは私達にとってこの上ない喜びであるに違いありません。そして,それだけの愛が私達の間に本当にあるのならば,たとえ集まることができない期間が長く続こうとも,群れは群れであり続けることでしょう。心を一つにした――少なくとも互いの心が一つであることを熱心に求め続ける――群れ,イエス・キリストの教会がこれからも生き続けていくに違いありません。

私達の間にあるのはそのような愛でしょうか?それとも私達は,ただ互いに仲良しなだけでしょうか?仮に私達が仲が良いだけの間柄であるとしましょう。どういうことになるでしょうか?いつしか毎週礼拝に出席するのが負担になってきませんか?喜んで集まるというよりも,義務だから礼拝に出ている…そんな気持ちになってしまっていませんか?互いに助け合ったり,励まし合ったりできるのは嬉しいけれど,それが負担にならない程度に距離を置きあう。奉仕をすることはするけれども,小出しにする。波風が立たないように当たり障りのない会話で楽しく過ごし,本音を言い合うことがない。とすれば,本当の意味で心が一つになるということもない。

1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

み言葉の前に静まって,もう一度問うてみましょう?私達の間にあるのは,愛ですか?ただの仲の良さですか?「愛だ」とみ言葉が言っています。あなたがたは,真理を受け入れたことによって,新たに生まれたもの。だからあなた方の心には偽りのない兄弟姉妹愛があるはずなのだと。逆に言えば,もしそのような愛が私達の絆となっていないのだとしたら,私達は福音の真理を受け入れた者だと本当に言えるのかどうか,そこが疑わしくなってくることになります。違う!そうではないはずです。今,家庭礼拝を通してこのみ言葉(第一ペトロ1章22節)に招かれている私達は,皆,福音を信じた者です。「キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神(21節)」の真理を受け入れた者です。だから私達の心には,信者同士が互いに抱く偽りのない愛があるはず。だから私達は毎週集まってきました。これからも集まり続けます。集まることができない今は,その日が来るのを心から待ち続けます。愛しているからです。集まることで励まされるからです。共に献げる礼拝をとおして励まし合いたいからです。

私達が時に集まることに困難や重荷を覚えてしまうのは,そして実際私達の教会が今後も集まり続けられるかどうかという不安を通らされてきたのは,その愛が十分に発揮されていないからだということを認める必要があるかも知れません。私達日本人には濃い人間関係を避けようとする傾向があると思います。それが日本文化の特質だと言えるかもしれません。欧米人ほど明確ではないにしても,私達の間には確かに個人主義と言えるものが存在しています。そういう環境の中で信仰を守っている私達も,自分達が「仮住まい」の者であることを忘れてまわりの伝統的文化や生き方に同調するようになると(17,18節),与えられているはずの愛が,本人にも感じられなくなってしまうほどに冷え込んでしまいます。だからみ言葉は,ただ「愛を抱いている」というだけでなく,更に「深く愛し合いなさい」と勧めるのでありましょう。

私達は信じました。聖書のみ言葉,福音の真理を心から受けいれ,信じました。福音は私達に救いを得させ,新たに生まれた者とする神の力です(ローマ書1章16節)。生まれさせるだけではありません。それは私達を成長させます。朽ちることのない種,み言葉から生まれた私達にはできるはず,更に強く愛し合うこと,更に深く愛し合うことがです。

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